昭和44年09月27日 夜の御理解
問題を問題として取り組むという事は、お互い問題のないものはない、それぞれの問題を持っておる。その問題を問題とするということは、その問題を信心で頂くという事だと思うんですね。ですから、あの問題を信心で取り組ませて頂いて、その問題が信心によって消化される。例えば今日の様にこうして、久し振りのおしめりを頂きますと、もうこりゃだれでも心から有り難いなあとこう思います。
けれどもなかなか、炎天が続きます。その炎天にはなかなかその、お礼が言えない様なもんで、実は降る事も有り難いなら、照る事も有り難いのです。そこが分かればだから全然問題がないわけです。だから私はいつも問題を問題としたんじゃつまらん。問題が問題じゃなくなる、問題じゃないというところに、何にも問、問題はないというおかげを頂かれると申しますけれども、やはり過程としてね。
やはりその問題をもんだいとしなければいけない。しかもその問題が、もちろん問題をもんだいに大きくしていくのじゃなくてね、その問題を問題として、その問題の中から信心を体得していく、頂いていく、その問題を自分の心ひとつの中に治めれれるおかげを頂いた時にね、もう問題はなくなるというように、その問題がいよいよ私を、まあ豊かに大きくしてくれる、ね。
ですからその問題をまあ様々な問題がありますが、その問題を逐一御取次を頂いて、お願いをさせてもらう。そこから問題をいわゆる信心で頂かせてもらう道付けと言った様なものがなされる。今日ある方が参ってきてから、もう本当に合楽に御神縁を頂いて、おかげを頂いておるという事は、そのどのような問題を持ってきてもね、ここへ持ってくると解決の、その道を作って頂くという事が有り難いというんです。
こういう事を言うんですよね。もう本当に苦しい問題を持ってくると、親先生がそうじゃんねっち、そうじゃんね、まああのそうじゃんねと言われるようにその、あのう、事を聞くともう今まで問題であったものが、もう問題でなくなってくるとこう言う。私はそれを聞かせて頂いてから、本当に確かに私はそうだと思う。そりゃ私から見ると、そんなことは問題じゃないじゃないのというような事でも。
その本人にとっては涙の出るほどの問題なんですから、そうじゃんねと一応そういう所の、あのそうじゃんねという事を聞くと、こちらがこの問題がもう問題じゃなくなってくる。もう親先生が分かって頂いたからと言う様な気がするっち言う。でそこからまた少し高い次元においてですね、教導して頂くという事が、あの合楽でおかげを頂くそのまあ一つの魅力だと言った様な事をいっておりますが。
是はしかしみんな同じ事が言えるのじゃなかろうかとこう思う。御取次を頂いていわゆる問題の性質をよく見て、という風にいわれますが、問題の性質をよく見てその問題の内容というものを、信心で取り組ませて頂くという事。しかも御取次を頂いてそして御取次を頂いて、いわばある場合には自分の心でこなしていけれる、ある場合は御取次を頂いて、その場で問題が解決する程しのおかげを頂かせて貰いながら。
私はその問題が愈々自分を豊かに大きくしていくものであると私は思うのです。降る事も有り難いなら照る事もまた有り難いのぞという、そのそういうところを目指しての信心。過程においてはやはり、だから照る事も苦しい。なら照る事を、苦しい事を問題として、私は本気でその事を、分からせてもらうというか、または御神意を悟らせてもらうという、そこんところを私はいいかげんにされてはいけない。
やはり、問題は問題と本気でしなければ、そこから修行の心も起こって来るでしょうし、そのせい問題が、徐々に解決してくるということ、解決のおかげを頂くこともさることながら、その問題を問題とせんで済む程しの豊かな大きな、力のある心というものが一時いると思うですね。
どうぞ。